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2020年4月 5日 (日)

野良坊菜之碑

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新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止になった伝統野菜プロジェクト主催の3月のセミナー「のらぼう菜と仲間たち」。そのための事前取材のメモをまとめました。埼玉県の「比企のらぼう菜」に続いて取材したのは、東京の「のらぼう菜」。「江戸東京野菜」の一つに認定されています。あきる野市の圃場を二か所、見学しました。

JR五日市線「武蔵五日市駅」で待ち合わせ。JAあきがわ五日市のらぼう部会の乙戸博部会長にご案内いただきました。

まず向かったのは、のらぼう菜の石碑。あきる野市小中野にある「子生(こやす)神社」の境内裏手に建っています。前から一度見てみたいと思っていた念願が叶いました。

▼子生神社
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いただいた資料に、石碑の全文が載っていたので、書き写しました。

 明和四年 幕府代官伊奈備前守ガ 地元名主代表 小中野四郎衛門 網代五兵衛二命ジテ 引田 横沢 舘谷 高尾 留原 小和田 五日市 深沢 養沢 檜原ノ十二ケ村二のらぼう菜ノ種子ヲ配布シ 栽培法ヲ授ケテ コレガ 繁殖ヲ計ラシメタ 即チ秋二植付ケテ越冬シ春ノ食料不足トナル端境期二新芽ヲ賞味セシメタ
 コノ葉ガ 天命天保の大凶作二多クノ住民ガ飢餓二サラサレタ際人命ノ救助二役ダッタト伝エラレテイル 茲ニソノ事績ヲ永ク後生二 伝エル為 建碑スルモノデアル
昭和五十二年 春 日

整理してみるとこういうことです。

  • 1767年(明和4年)、代官が地元の名主代表2名に命じて、のらぼう菜のタネを配り、12の村に栽培方法を教えた
  • タネが配られた村として記載されているのは、引田 横沢 舘谷 高尾 留原 小和田 五日市 深沢 養沢 檜原、の10村。(あとの2つの村名は石碑にはありませんが、古文書「闍婆菜種御請証文」には、10村のほか、小中野村、網代村の名もあり、これを加えると12村になります)
  • 秋に植えつけて越冬し、春の端境期に新芽を食べる
  • 天明天保の飢饉に、人命を救った

石碑に登場する野菜の名前は、古文書にある「闍婆菜(ジャバナ)」ではなく「のらぼう菜」。それも石碑は全文漢字とカタカナなのに、「のらぼう菜」だけひらがなで、特別な思い入れを感じます。

■「のらぼう菜」ネーミングの由来説
いただいた資料一式には、「のらぼう菜」の名前の由来を物語る漫画が入っていました。

天明天保の飢饉の後、めざとい役人がジャバナに年貢をかけようとしたところ、農民は「これは、野良に坊さんがボーッと突っ立っているようなもので、何の役にも立たない」と言い抜けたことから「のらぼう菜」と呼ばれるようになった、というのです。なるほど。

■五日市のタネ
同じ漫画の続き。五日市の「のらぼう菜」のタネについて、次のように描かれています。

五日市には、早生、晩生を含めて12種類の「のらぼう菜」がありました。それをみんなおひたしにして食べくらべたところ、樽スミさんの畑の「のらぼう菜」が一番おいしいと意見が一致し、樽さんのタネに統一することになったそうです。
農業試験場が調べてみると、樽さんの畑の「のらぼう菜」は糖度などの成分は一番ではなかったのですが、昔からの味でした。畑が山の上にあって、他のアブラナ科の野菜と交雑しなかったことが味を守ったわけです。
ただし、一つのタネだけでは、病気などで全滅するおそれもあるので、他の人のタネも保管されています。(別の資料によると「早生」と「晩生」の採種をしているとのことです)

▼子生神社
7120
  

 

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