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2020年4月16日 (木)

かわさき菅の「のらぼう」

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3月7日(土)の伝統野菜プロジェクト主催のセミナー「のらぼう菜と仲間たち」は、新型コロナウイルスの感染拡大による影響で開催を断念。来年春に開く予定です。事前に進めていた「のらぼう菜」の取材について、忘れないようにメモしておきます。

今回のセミナーは、江戸時代に東京近郊(現在)の12村に配布された救荒作物「闍婆菜」の今を追ってみよう、という企画。埼玉の「比企のらぼう菜」、江戸東京野菜の「のらぼう菜」、川崎菅地区の「のらぼう」と、3つの地域の伝統野菜として栽培されています。
このうち、埼玉と東京はこれまで取材したことがありますが、川崎についてはよく知りませんでした。

ネットで「かわさき菅で育んだ のらぼう」というパンフレットがあることを知り、企画・編集された清水まゆみさんにつながることができました。
▼清水まゆみさんが企画・編集したパンフレット
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▼かわさき菅の「のらぼう」
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川崎菅の「のらぼう」にも、一度会いに行かなければなりません。清水さんに、ぜひのらぼう畑を見せていただきたい、とお願いしました。ご案内いただいたのは、地域特産物マイスターで菅のらぼう保存会会長の髙橋孝次さんの圃場です。

▼髙橋孝次さん
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▼菅郷土資料館
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清水さんと駅で待ち合わせて、髙橋孝次さんのお宅に向かいました。敷地に入ると右にハウスと「菅郷土資料館」、左には隣接する「野戸呂稲荷神社」の鳥居が見えます。
圃場はお宅から歩いて10分程度の街のなかにあります。圃場を見学する前に、高橋さんから菅の「のらぼう」の由来をうかがいました。それは、これまで知っていたこととは違いました。

  • 日本への渡来は定かではないが、菅の「のらぼう」のはじまりは、およそ800年前の鎌倉時代、稲毛庄の領主に嫁いできた源頼朝の娘の従者が持ち込んで栽培を続けたのではないか。ただし、農家の自家用野菜で、ほかに広がらなかった。
  • 「のらぼう」が外部へ伝わったのは約300年前。当時、多摩川は水運が盛んで、筏流しで木材を江戸に運び、戻りは帆掛け船で上れるところまで遡って、そこからは徒歩だった。帆掛け船で上れる限界が菅。ここには船宿があった。宿の食事に出された「のらぼう」の味に感激した船頭が種を故郷に持ち帰った。こうして、「のらぼう」は多摩川上流の五日市地区に伝わり、現在はあきる野市の特産物になっている。

来年に延期したセミナーのための取材のなかで、比企、五日市、菅、それぞれの物語を知ることができました。

どの地域にも、江戸時代より前から人が暮らしていました。埼玉の「比企」は平安時代の『延喜式』に武蔵国の郡の名前として登場しますし、「五日市」では戦国時代の終わりごろから市が開かれていたそうです。また、川崎の「菅」には平安時代末期に小沢城が築城され、その後戦場になりました。そもそも「江戸」という地名も、家康が入城するずっと前、鎌倉幕府の『吾妻鏡』に初めて登場しており、平安時代後半に発生したのではないかといいます。

「のらぼう菜」の起源は江戸時代に救荒作物として配布された「闍婆菜(じゃばな)」とされることから、江戸以前のことにはあまり注目していませんでした。でも、それぞれの土地で人々の暮らしはそれよりはるか前から続いていたわけです。このことがたいへん興味深く、心に残りました。お目にかかったみなみなさまに御礼申しあげます。

 

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